藻 岩 山
明治の初めの頃は「藻岩山」と言わなかった
藻岩山はアイヌ語で「インカルシペ? エンカルシベ? =そこでいつも物見をするところ」と言われていました。ちょっと高いところに登ると札幌を見渡せるので山全体もそう呼ばれていたようです。「北海道」の名付け親として有名になった、松浦武四郎の地図にも載っています。
そして北側に隣接して「モイワ=小さい山」と言われた「現在の円山」があったのです。
まず、「モイワ」が円山と言われるようになった
明治4年、札幌神社(現在の北海道神宮)が建てられ、それを機に、当時の岩村通俊判官が京都東山の八坂神社前の円山公園にちなんで「円山村」と村名を変えたのです。「モイワ」は見るからに円い形の山です。そのため、すぐに山のことも「円山」と呼ばれるようになったのです。
いつのまにか「インカルシぺ」が「藻岩山」に
それでは、なぜ「インカルシペ」が「藻岩山」になったのでしょうか、調べてみましたがはっきりしません。和人にとって「インカルシペ」が発音しにくかったこと、「円山」が一般化したため「モイワ(すでに「藻岩山」と漢字で書かれていた)」というなじみやすい名前が宙に浮いたこと、地続きで繋がっており、原生林に覆われた緑の濃い山でイメージが一致していたことなどから、「藻岩山」が転用して使われるようになったと思われます。
明治39年に山鼻村と円山村が合併して藻岩村が誕生しましたが、その頃はもう「藻岩山」が定着していたと思われます。
旧名称 八垂別(ハッタリベツ)
現在、藻岩山から硬石山までの一帯を「藻岩」地区と言っていますが、太平洋戦争が始まる前までは
「八垂別(ハッタリベツ)」といわれておりました。
アイヌ語が語源
「八垂別」の語源はアイヌ語で、「ハッタルペツ=淵(水が深くよどんだ所)の川」に由来していました。昔は豊平川が今より西側を流れ(当時は上流にダムがなかったため現在よりも水量が格段に多かった)崖にぶつかって深い淵を作っており、そこにハンケハッタラルシヘ(現北の沢川),ヘンケハッタルシベ(現中の沢川),タンネハッタラ(現南沢川)などが注いでいたことから、この辺り一帯の地名として「ハッタリベツ」と言うようになりした。 (松浦武四郎の山川地理取調図の一部分より)
漢字に当てはめて「八垂別」
入植してきた和人はハッタリベツに漢字を当てはめて使っていましたが、「ハッタリ」の部分は「発足」(共和町に同じ漢字を使った地名がある)とか「発垂」なども使われていました。最終的には「八垂」が定着しました。
当時、豊平川に流れ込んでいた川が作った沢に、「一号沢」から「八号沢」の名称が付けられていたので「八垂別」という名前がしっくりきたのだと思われます。
「八垂別」という名は、中の沢川の上流にある「八垂別の滝」と南沢にある「八垂別墓地」に現在も残っています。
「川沿」は「本通」と言われていた
「八垂別」の頃、「川沿」という地名はありませんでした。そのころは現在の北の沢,中の沢,南沢,川沿の公式名称はすべて「八垂別○○番地」か「八垂別番外地」でした。当時使われていた四号ノ沢(現北の沢),五号ノ沢(現中の沢),八号ノ沢(現南沢)という呼称は公式名称ではなく慣習だったのです。それでは、現在の「川沿」は何と言われていたのでしょうか。当時は単に「本通」と言われていました。石山通(石山本通)が通っていたのでこう呼ばれていました。当時の正式な地名は「円山町八垂別○○番地」でしたが、一般には「本通」という呼称が使われていたのです。