top of page
                   開拓使(明治2年)以前の藻岩

  藻岩地区に人が定住したのはいつ頃からでしょうか。人類が誕生(約200万年前←諸説あり)してから、氷河期などの気候変動により海水面の変動が繰り返され、このあたりは海の底だったり、大陸と地続きになったり、島になったりしていました。大陸と地続きのときには九州経由やサハリン経由で北海道を移動していた人々はいたようですが、この藻岩地区を移動したり一時的に住んでいたという痕跡は見つかっていません

縄文文化・続縄文文化(本州などは弥生文化)の時代 10,000~1,400年前>

藻岩のいろいろな所から縄文式土器のかけらが出土しており、縄文文化、続縄文文化の時代には定住していた古代人がいたことが分かります。

 藻岩北地域の範囲では藻岩北小学校の周辺に寺田遺跡、松村遺跡、安斎遺跡があり、数千年にわたって定住していた痕跡が、数多くの石器、土器などからわかります。これらの石器や土器の一部は藻岩北小学校の職員室前廊下の陳列棚と「学校郷土博物館」で見ることができます。

 この時代はまだ農業が行われておらず、狩猟・漁撈と木の実などの採集をしていたと考えられています。この時代に定住していた人たちが,アイヌの人たちの祖先だったのかは遺骨が出土していないのでわかりません

image.png

アイヌの人たちの時代(本州などは古墳時代から~江戸時代) <1,400年前から150年前>

 今から1400年前頃に,原始的な農業が確立した,住居の中にカマドができた,本州との文化の交流がふえた、衣服が編み物から織物に変わったなど、生活や文化に多くの変化がありました。また、縄目の模様がついた縄文土器は、木のへらでこすったような跡のある擦文土器になり、更に鉄器が使われるようになって石器の文化は消滅しました。このような変化をもとに新たな文化(擦文文化・アイヌ文化)の時代として分類されています。

 新しい文化を身につけたアイヌの人たちがに藻岩に定住していたことは住居跡、土塁、見張台、狩小屋、石塚、祭・儀式場と思われる多くの遺跡によってわかっています。しかし、そのほとんどは都市化が進むにつれて忘れ去られています。定住していた人たち以外にも、ヒグマの狩猟期(冬眠している雪の季節)や鮭が遡上する秋には、他の地域から来て一時的に滞在していた人もいたようです。

 残念ながら、アイヌの人たちは文字を使っていなかったので、記録は残っていません。記録としてこの藻岩地区が登場するのは、明治も間近い1858年に虻田から定山渓を経て石狩まで探検した松浦武四郎の「後志羊蹄日誌」と何度かの探検の成果を地図にまとめた「東西蝦夷山川取調図」にわずかにふれられいるだけです。

image.png

      東西蝦夷山川取調図 松浦武四郎
 ・大きな地図の藻岩近辺を写し取った図

 ・黒い線は2枚の図のつなぎ目(上下でかなり

    れている)

八垂別(はったりべつ)時代の藻岩 

​明治の頃

 明治2年に開拓使が設置され、明治政府による北海道開拓が本格化しました。開拓の中心を札幌に定めて、町並みが整備され始めていた明治の初め頃、八垂別はまだうっそうとした原生林に覆われていました。そのほとんどは官林(国有林)、山鼻・琴似・新琴似屯田兵の公有財産地になっており、一般の人は入ることができない土地でした。
 以前に住んでいたと思われるアイヌの人たち(狩猟生活が主で農業はそれを補う程度、無肥料耕作だったため数年で肥料分が減少し、もっと肥沃の地を求めて移動を繰り返していたと考えられている)については、その後どうなったかは資料がなくわかりませんが、日高などのアイヌ部落から、熊や鮭の狩猟の季節には移動してきて短期間滞在していたことが古老の話で明らかになっています。
                      八垂別で最も早く開けたのは、硬石山です。札幌の町並みの整備に必要

                     な石材が硬石山より産出する事が発見されたのは明治5年です。まだ道が           

                                                      整備されていなかったため切り出した石を馬に背負わせて苦労しながら運

                                                                               んでいました。採石・運搬をしていた人たちが少しずつ道を整備し、明治

                      13年には今の石山通(旧道)が硬石山の石材を大量に運ベるようになり 

                       ました。
                        明治の中頃になって山鼻屯田兵に戸別の給与地が割り当てられましたが 

                     規則が厳しく使いにくかったようで、たまに炭焼きや家畜の放牧する程度              

                     でした。やがて規則が緩和され、土地を借りて開墾できるようになってき 

                     ました。明治37年からは規則がなくなり自由に土地の売買ができるよう

                     になって急速に定住者が増えてきました。
                      八垂別に最初に開墾に入ったのは明治19年で、30年までには32戸、       

                     そして明治45年までに169戸、大正13年までに212戸と(主に東

                     北,北陸からの移民)が農家として入植し開拓が進みました。
                      当時の豊平川は今より西側、旧道のすぐそばを北に流れていました。 (旧          

                     道は硬石山の石材を少しでも早く運ぶために当時の豊平川に沿って作られたと考えられます)豊平川は八垂別への入口にあるわりぐり(割栗)にぶつかって流れを東に変えていました。そのため大雨が降り増水すると道路が冠水し通行できなくなる事も度々でした。

image.png

​大正から昭和16年

 上の図は明治の中頃の様子を復元した物、右の図は昭和12年

に作られた地図です。屯田兵の給与地になった明治中期の地図に

は石山通しかかありませんが、その後入植者が増え石山通から四

号の沢、五号の沢、八号の沢への道路が大正年間までにはほぼ整

備されたことがわかります。このような道路の状況は自家用車が

増え始める昭和30年代まで続きました。
 2枚の地図で大きく変わっているのは、豊平川の流路です。明

治の中頃はほとんど旧道沿いに流れていたのが、大正・昭和と少

しずつ(大きな洪水のたびごとに)東にずれています。そのため

旧道と豊平川の間に広く平らな土地ができてきましたが、またい

つ洪水によって浸水するかわからない河川用地だったので、小灌

木の多い雑木林になっていました。
 八垂別に住む人のほとんどは農業に従事していました。はじめ

の頃は大麦、小麦、あわ、ひえ、豆類などの雑穀類が多かったの

ですが、札幌の人口が多くなるに従い、そ菜(青物野菜)の需要

が増え、そ菜を中心とする農家が増えてきました。また水田によ

る米作り、リンゴづくり、酪農なども行われ、札幌市に近いとい

う地の利を生かした農業に取り組みました。しかし、連作による

地味(ちみ)の低下、第1次世界大戦後の不況による価格の下落や

繰り返される冷害など、苦労の連続でした。

image.png
image.png
bottom of page